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すぎなのたより

すぎなのたより

ひみつの花園計画

 そこに初めて入ったのは、この土地に移り住んで間もない時だった。何かの用事でFさんの家を訪れたとき、そこを案内してくれた。それは突然のことだった。私はただ近所づきあいの用で訪れただけなのだが、Fさんはどうしてもそこを私に見せたかったようすで「さあ、こっちです」とFさんの栗園に連れて行った。私はそこに栗園があったことはまったく知らなかった。そこへ入るなり私は息を飲んだ。家から数分の所なのに、そこは景色も全然違う別世界のようだった。ちょうど栗の収穫時期で、Fさんは栗の品種や栗を経営の柱にした理由、開拓で入って苦労したことなど問わず語りのように話してくれた。そして1ヘクタールもある栗園の隅から隅まで案内してくれて、なぜかその農園の境界を教えてくれたのだった。

 それから何年かしてFさんは亡くなった。まだ70才代前半だったのだと思う。元気で仕事をしていたのだが、ある日体調を崩し検査入院して、そのまま亡くなってしまった。今ではこの辺りでも斎場ができて近所のお手伝いも少なくなったが、当時はまだお葬式の準備の多くを隣組がしていた。隣組の一員である私もお手伝いに行っていた。栗園にはあの後栗を拾わせてもらいに一度行ったきりだった。Fさん宅でお手伝いをしながら、あの栗園はどうなってしまうのだろう、と考えていた。Fさんには子供はたくさん居たがみな他の仕事に就いており、誰も後を継いではいなかった。

 私がこの土地に移り住んだのは百姓を始めるためだった。この土地に来た当時、農家でなくて百姓を始める人はここにはほとんどいなかった。最近でこそ、田舎暮らしという言葉があちこちに飛びかい、新規就農する人が増えている。しかしその頃は畑を借りに行っても「畑を借りて何をするのか?」と、けげんな顔をされる。ここで野菜を作って生活してゆきたいと説明しても「ああ、道楽かい?」と言われる始末。それもそのはず、自分の息子たちは跡を継がず都会に出てしまい、農家でさえ農業で生活できると思っている人は少なかった。それでも何人かの方は「畑は空いているのだし、ならやってみな。」と貸していただけた。このようにして私の百姓暮らしは始まり、3年ほど経っていた。

 Fさんが亡くなってから1年ほどたっていた。耕さなくなった田んぼには背丈くらいの草が一面に生えていた。栗園にも笹が忍び込んできていた。私はFさんの田畑を借りることにした。Fさんの田んぼは谷津田、栗園は1町歩ほどあるのだがその半分は傾斜地、あまり良い条件ではないが、初めて栗園を案内してもらった時から、何か託されていたように感じていた。まず初めにしたことは田んぼの整備だった。背丈ほどに伸びた草を刈り払い、耕運機で耕し、畦を直す。田んぼは畦がいのちだ。畦を作ることによって水を貯めることができる。そして、水を貯めて稲を作る田んぼは、いくら荒れて雑草が生えていようとも1年目から田んぼになる。陸に生える草は水で抑制できるからだ。そして何年か水をはっていなかった田んぼは、無肥料でもみごとに稲が稔る。畑状態になっていたときの草とその残渣、田んぼの時の土の中の有機物が酸化したものが肥料成分になるからだ。

 田んぼは百姓を始めた年から始めていた。まったく経験は無かったが、隣の田んぼのおじいさんに教えてもらった。いろいろと教えてもらう時、年配の人の話がとても参考になった。それは機械や農薬、除草剤を使う前の農業を知っているからだ。「昔はどうやっていたのですか?」と聞くと、自分の若い時の話を喜んでしてくれる。この話がとても参考になるのだ。もう少し若い年代になると、この手の話はきけない。おじいさんに教えてもらいながら、昔ながらの「保温折衷苗代」を作った。

 田んぼは耕して畦を作った後、水を入れ「荒代掻き」をする。これは田んぼの土と水をよく混ぜ合わせる工程。次は「くろぬり」といって、畦に田んぼの練った土を塗りつけ、水がもれないようにする。次に「代掻き」をする。これは田んぼを水平にする作業、ちょうどよい水加減で田んぼを掻いてゆくと、トロトロになった土は水の力で水平になろうとする。田んぼとはある意味土木工学の世界かもしれない。水平の発見は弥生、もしかしたら縄文かもしれない。「保温折衷苗代」だが、こうして作った田んぼにベッドのような畝を作り、水に浸して芽出しした籾種をまく、その上から山土をかけ、くん炭をかける。そして保温のために油紙をしく。これは寒冷地の苗代のやり方だった。今はほとんどしている人はいない。苗代に播いた種は45日後が田植えの時期だと教わった。田植えの予定日から逆算して種籾を播く。この時カレンダーを見て「いぬ」の日には播いてはいけないのだと言う、なぜだか解らないがこの日に播くと育ちが悪いらしい。

 田んぼの整備の次はいよいよ栗園の整備を始めた。すでに笹が忍び込んでいた。まずは笹や草の刈り払いをする。約1町歩(1ヘクタール)傾斜地も多い。すべての草を刈り払うのに何日も何日もかかる。刈り終えると最初に刈った所はすでに草が伸び始めていた。まだここをどうしようかという構想もないまま、草を刈り続けていた。栗を収穫して売ればいいと気楽に考えていたが、放置された木で無農薬でできた栗の実は、9割は虫が入っていて売り物にはならなかった。おまけに落ちた栗の実は、毎晩イノシシが来て食い荒らしていった。この広大な栗園をどうしようか……と考えながら草を刈る。まず一部の栗の木を切り、ブルーベリーを植えた。草を刈りながら星野道夫の本に出てきたボブ・サムのことを考えていた。きっと何か目的があるんだろう、と。何年も草を刈りながら、少しずつ畑を作っていった。

 ある年本を読んだ。親を亡くした不機嫌でへそまがりの少女が、引き取られたイギリスのお屋敷の荒れ果てた庭を手入れしながら、いきいきとした少女に変わってゆく話。
 バーネットの『秘密の花園』をご存知だろうか。

 バーネットの『秘密の花園』の主人公メアリは、不慮の病で両親を失い、母国イギリスの叔父のもとへ預けられる。インドのお屋敷で多くの召使や乳母に囲まれ、何不自由なく、しかし親の愛情は受けずに育ったメアリは、いつも不機嫌でへそまがりな少女だった。イギリスの叔父のお屋敷でも、今までのように振る舞い、周囲の者を困らせていた。だがメアリはここでいくつかの出会いと発見を体験する。彼女のお世話係マーサ、マーサの弟で動物と話ができるディコン、大地のようなやさしさを持つマーサの母親、コマドリと友達の年老いた庭師、そしてこのお屋敷の子息、病弱で癇癪持ちの少年コリンだ。ある日メアリはこのお屋敷の庭で、誰も入ることが許されない荒れ果てた花園を発見する。ここに内緒で入り込み花園を手入れしてゆくうちに、メアリも病弱だったコリンも、花園がよみがえるように変わってゆくのだった。

 『秘密の花園』は、少年少女文学全集などに入っているような児童書と思われているが、じつは大人が読んでもよい本だ。この物語からは、物質的な豊かさとその陰にある世界から隔絶されたことによる貧しさを読み取ることができる。多くの使用人を使い広い屋敷に住もうとも、世界(人や自然との交流)から切り離されるということは実は貧しいのだ。お世話係マーサ一家は極貧だが家族愛にあふれ、動植物も家族のように暮らす。一見孤独に見える庭師は、小鳥や木々、そして良い記憶を友としている。メアリたちが秘密の花園とともに変わってゆく様は「園芸療法」を連想させる。今この時代、『秘密の花園』から得るものは大きい。

 さて、栗園だが、ブルーベリーと小さな畑を作った他は、ただただ何年も草を刈り続けていた。それもいつもきれいなわけではなく、荒れそうになったりまたきれいにしたりの繰り返し。百姓で食わなければならず、その合間の仕事なのだからはかどらなかった。そんな時に読んだ『秘密の花園』、ふとこんなことを考えた。この栗園を多くの人が関わり菜園や果樹園、草地にはヤギやヒツジがいるような、世界(人や動植物・自然)とつながる「場」にできたら……。

 就農して3年くらいは野菜だけを出荷していた。その後、鶏を飼うようになった。最近はそうでもないが、当時は脱サラ百姓はまず鶏を飼うこと(?)になっていた。たぶん卵を売って比較的簡単に現金収入が得られるということからだろう。初め10羽を1年間飼い、鶏とのチューニングというか練習をした。それから間ばつ材で10坪の鶏舎を建て、100羽のヒナを入れた。毎年1」棟ずつ鶏舎を建て鶏を増やし、いつしかそれが我が家の生計の柱となっていった。

 私がしている養鶏は自然養鶏といわれている。自然養鶏の対極にあるのがいわゆる近代養鶏。これはケージといわれる鳥かごに1羽ずつ鶏を入れる、このかごが連続して並んでおり、それが2段、3段4段と重ねられている。鶏の産卵は光に反応するので、電灯をつけ日照時間を管理し、温度管理をする。大規模養鶏のウィンドレス鶏舎は、名前のごとく窓はなく、光と温度だけでなく外界の刺激をいっさい遮断して自然をも管理する。このウィンドレス鶏舎1棟に1万羽も入るのだという。そして卵を最も多く産むように計算された配合飼料(ビタミン、合成アミノ酸、色素、酸化防止剤、抗生物質なども配合される)を与えられる。しかしすべてを管理できているように見える近代養鶏の鶏舎では、鶏のいろいろな病気が絶えないという。しょせん人間には自然を管理することはできない。ひとつのほころびを繕えばそれがあらたなほころびを生む。原子力発電所もまたしかり……。
     
 自然養鶏の基本は「平飼い」「自家配合飼料」「初生雛からの育成」だと考えている。
 「平飼い」とは地面の上に直接建てた四方金網の鶏舎の中で鶏を飼う、鶏はこの中で自由に動きまわれる。風通しはよく、日光もさしこむ。この環境のなかでできるだけストレスのかからない飼い方をする。人間も同じだが、肉体的、精神的不調の最大の原因はストレスだ。自然はやさしいわけではないが、四季のリズム、他の生命との交流、大地の気などが動植物を健全に保ってくれる。「自家配合飼料」とは自分の処で原材料を調達して日々工夫して餌を配合する。こうすることで市販の配合飼料に入っているさまざまな添加物や遺伝子組み換え穀物などを排除でき、身近の未利用資源や国内産原材料で納得のゆく餌を作ることができる。「初生雛からの育成」とは生まれたばかりのヒヨコから育てるということ。育雛場で生まれた雛はすぐに口ばしを切られてしまう。これは他のヒヨコを傷つけないためで、こうして60日~90日令で養鶏場に引き取られるまで育てられる。自然養鶏では口ばしが切られる前に育雛場から引き取る。口ばしのある雛は何でも啄ばめるし、すぐに引き取ることで薬剤や抗生物質を雛の体内に入れずに、過保護にせず納得のゆく育て方ができる。引き取って3日間は玄米だけを与える。こうすることで強健な消化器官を獲得できるのだという。玄米を腹いっぱい食べてもみがらの床におなかも頭もべたっとくっつけて眠るヒヨコはほんとうにかわいい。

 自然養鶏のみっつ基本は、じつは鶏だけでなく人間にもそのままあてはまる。自然とともに暮らし、良い食べものを食べ、小さいときから健全に育てる。これはあたりまえのことなのだ。鶏飼いにしても農にしても、あたりまえのことをあたりまえにしてゆくことが大切なのだと思う。

 自然養鶏は就農して3年めくらいから始めた。だんだん羽数を増やしてゆき生計にしめる割合も増えていった。ここ何年かはほとんど養鶏が主になっていた。生業としてはもちろんそれもありだが、自分の立ち位置としてはしっくりこない。やはり基本は循環や自給。鶏を飼い卵を取り、鶏糞を畑に入れ作物を作る、その残渣を鶏に返す。もちろん完全な自給や循環からはほど遠いが、そんな農をめざしたい。それは生業ではあるけれども、もっと広い意味での「暮らし」。百姓という「暮らし」のなかで、現金収入に結びつかない「仕事」は意外と多い。本来、生きるということのなかでお金を得るという行為はごく一部なのかもしれない。そしてそんな「暮らし」にとてもとてもひかれるのだ。昨年あたりからまたいろんな野菜を作り始めた。あらためて野菜作りは楽しいと思う。

 初めて百姓にあこがれたのは高校生の頃だった。中学生の時、私は考古学少年だった。休みのたびに近くの小高い丘の桑畑などに土器や石器を拾いに出かけた。小さな破片なのだが、それが5000年も前の縄文人が作ったもの、手にしていたもの、その美しさにワクワクした。そして今自分が立っているこの地で縄文人が生活していたことを想像して胸躍らせた。高校生の時、カウンターカルチャー、ヒッピームーブメント、コミューンなどという言葉と出会った。受験勉強や上昇志向の世の中に対し「こんなの本物じゃない」と思っていた私にとってまさに「もうひとつの生き方」だった。近くに大きな岩山がありその裏側はなだらかな森がつづいている。そこに竪穴住居を建て、石でかまどを作り、ニワトリやヤギを飼って自給自足の生活をする……。授業中に窓の外に見えるその山を眺め、いつも妄想していた。十数年後百姓を始めたのだが、こんな原体験はずっと影響しているし、結局あの時妄想していたようなことをやっている。それだからなのか、農業に転職したとか労働という意識が希薄な気がする。換金作物を作るだけでなく、農にまつわることを生き方としてやってゆきたい。
 
 いろんな種類の野菜を作る、田んぼで米作りをする、鶏やヤギを飼う、季節とともに毎年同じように流れてゆく暮らし。そしてオープンファームや自主上映会、いろんな人たちとつながってゆく。どこまでが「仕事」でどこからが「遊び」なのか? お金を得るというところで線を引かなければ、境界はない。生から死までを俯瞰すればたぶん境界はなく、ただこの世で遊んでゆくだけかもしれない。すぎな農園のコンセプトは「かえりみられなかったもののなかに宝はある」としている。畑の草にも役目はあるし、虫にもそこに居るわけがある。足許を良く見れば、意識をかえれば、リラックスして大地に立てば、そこここに宝が見えてくるのだと思う。

 「もうひとつの生き方」ということに出会って、私は何か目の前に新しい世界がパーッと開けたような気がした。まわりにはそんなことを考えている人はほとんどいなかったが、全然気にならなかった。その頃知ったのは、コミューン、自給自足、自然農法、玄米食、マクロビオティック、精神世界、ボブ・ディラン、『ライ麦畑でつかまえて』……。

 ある雑誌のコラムに「ボブ・ディランを聞きながら玄米を炊く」というのがあり、ものすごくカッコよく思えた。実際、大学に入り一人暮らしを始めてから、ラジカセでボブ・ディランを聞いて電気釜で玄米を炊いた。圧力釜は高価で買えず、電気釜でも二度炊きすれば食べられると聞きそうしていた。当時は玄米を売っている米屋も限られていた。

 視点が変われば、見える世界も変わってくるし出会う人たちも違ってくる。金は無かったが時間のたっぷりある学生時代、いろんな出会いや体験は空間の移動はあまりなくても旅であり貴重な財産だ。
 原水爆禁止の平和行進というのがあり、九州の大分から37日間かけて長崎まで歩いた。ほとんど支援者宅に泊めていただき、ほとんどお金をかけない旅だったのだがずいぶんと世話をかけたと思う。
 大学の先輩の友人にマクロビオティックをしているご夫妻がいて、よく一緒にごはんをごちそうになりに行った。玄米と野菜のどれもおいしいごはんで、作り方やマクロの考え方を教わった。卒業してしばらくは年賀状のやりとりがあったがいつのまにか途絶えてしまった。今はどうしているのだろうか。

 悶々として何かを探していたとき、かつて「新しき村」にいた陶芸家の所を訪ねていった。何を話したのかまったく覚えていないが、ごはんをごちそうになり作品をいただいて帰ってきた。また、奈良の「大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)」にある「交流の家(むすびのいえ)」の管理人をされていた方と話していて、「宗教ってのは人と話すことやな」と言われはっとした、当時私は仏教学科の学生だった。

 山奥の寺に坐禅堂を建てた和尚さんと出会い、この寺に数ヶ月長期滞在して大学に通っていた。和尚さんと出会い間もない頃、本堂の入り口に腰掛けてぼーっと外を眺めていた時、何かが「ほわっ」と目の前を通り過ぎていった。そのとき、「ああ、流れに乗って行けばいいんだなあ」と感じ、何かとても楽になったことがあった。卒業してからも半年間居候させていただいた。

 今思い出すと、ずいぶんといろんな人のお世話になった。生き方に影響を与えてくれた人や一宿一飯の恩義も数えられないくらい受けた。そのことに対して礼を尽くしてきたかといえば恥ずかしい限りだ。
 ここ数年、20代30代の若い人たちと接する機会が多い。今は20歳の女の子が長期滞在して農園を手伝ってくれている。それで自分のその頃のことをいろいろ思い出すのだが、今の若い人たちはしっかりしていると思う。世代でひとくくりにはできないけれど、少なくともうちに来る人たちはしっかりしている。しっかりしているというのは、世間的なこと、というより見ている方向性というかビジョンみたいなものだ。若い時に持ったビジョンはその後そんなには変わらないと思っている。ただすぐにやって来るか遠い先にやって来るかは「流れ」の中のことなのでわからないが……。

 「ひみつの花園計画」はきっかけはバーネットの『秘密の花園』だ。花園の生命力はメアリたちを生き生きとした子供たちへ変えてゆく。自然の生命力はほんとにすごい。梅雨のこの時期、畑も野も山もいろいろな草や蔓がどんどん伸びて行く。この、農業から見たら困ったことは生命力の裏返しともいえる。刈っても刈っても草が生い茂るこの風土はすばらしい。農をひとつの入り口として、自然の生命力をして香りが衣服に染み入る如く受けられる「場」ができないものかと思っている。何も具体的には決まっていないし、あまり作為的にしてゆくわけでもない。ただ「流れ」はその方向のような気がする。キーワードは「もうひとつの生き方」「かえりみられなかったもののなかに宝はある」。いろんな人にお世話になってきた。ほんの少し恩返しできたら……なんて思う。

 就農する前、障害を持った子供と関わる仕事をしていたことがある。25年ほど前のこと。保育園で働きたいと思っていて、友人から紹介されて行ったのが産休代替の臨時職員。友人も詳しい説明はしてくれず、私も「障害児」と接する機会がそれまで全くなかったので、ここがどんな所なのかしばらくわからなかった。「心身障害児通所訓練施設」これがここの名称だった。予備知識や思い込みもなく放り込まれたので、あまりショックを受けたり考え込んだりすることもなく、ごく普通に接しこちらが楽しんでいた。後に保育園でバイトをした時に「健常児」に接し、ここで初めてその違いにショックを受けた。違いといってもそれは「できる、できない」とか発達が遅れているかどうか、ということであり、子供の持っている輝きには違いはない。むしろ障害を持っている子供たちはとてもユニークだし、いろんな輝きを発している。ここで仕事をしてこちらがとてもたくさんのことをもらったと思っている。「ノーマライゼーション」ということを福祉ではいう。これは、分けるのではなく同じ社会で一緒に普通の暮らしをしてゆくこと。子供がいて大人がいて老人がいる。元気な人がいて病気の人がいる。仕事をしている人もしていない人もいる。いろんな個性を持った人たちがごちゃごちゃいる。それが「社会」で「障害」というのもこんなカテゴリーのひとつ。「みんなちがってみんないい」ということだと私は考えている。「かえりみられなかったもののなかに宝はある」というのはこんな体験から出てきた。

 その頃、自然農をしている奈良の川口由一さんの所に田畑の見学に行った。「耕さず、肥料はもちいず、草や虫を敵としない、生命の営みにまかせた農」。川口さんの田畑を見てノーマライゼーションってこういうことか、と思った。川口さんの田畑は作物が草と共に育っている。耕さず畝だけが作ってある畑は、まるでなだらかな丘がつづく山を見ているようで、何とも癒やされる空間だった。ここは「いやしろち」だと思った。

 就農してから何度か自然農をしようと試みた。広い面積をやりすぎたり、忙しすぎて手が回らなかったり、いつも草だらけになりうまくゆかなかった。自然農は放任ではないので、よく観察して適切なタイミングで草の手入れをしていかなければならない。肥料を入れると作物は大きく育つが草はあばれる。肥料をなるべく入れないことが「やさしい畑」を作る秘訣ではないかと思っている。いま再び私の中で「流れ」は自然農に向かうのかと感じ始めている。

 家族が体調を崩した事をきっかけに青汁を飲むようになって2ヶ月になる。青汁の効用は野菜の酵素を取り込むことで腸内酵素を増やす、血液をきれいにする、免疫力を高める、などがあるようだ。何よりも自分で作った野菜が豊富にある。「身の回りのものたちが私たちを助けてくれる」という確信があるので、これはもう青汁と玄米だと決めた。飲み始めて確かに変わったことがある。食事の量が減り、間食もしたくなくなった。嗜好が変わり、脂っこいものをあまり欲しない。体重が少しずつ減りおなかがへこんだ。毎朝、濃縮された便がスコンと出る感じがする。そしてもうひとつ大きな変化は、毎食前、その日取れたいろんな野菜をジューサーにかけ「いただきます」と飲む儀式のようなひと時。飲んでから今日の野菜は何か?この後味はどの野菜のものかと語り合うようになったこと。ちょっとした連帯感が生まれている。ただ、ひとつ疑問が湧いてきた。「うちの野菜で良いのだろうか?」もちろん無農薬無化学肥料で、肥料も自分の所の自然養鶏の鶏糞を使っている。しかし青汁は大量の生野菜をとるので、有機質肥料とはいえできれば入れないほうがいいのではないか?。野菜(植物)の生命力ということを考えると、無肥料で自然・野生に近い状態で育ったものの方が生命力が高いように感じる。やはり私の中の流れは自然農に向かっているようだ。そう感じていたら妙に自然農をしている人に出会うようになった。こういった共時性はよくあることで、自分が動く時の指標になる。

 今回の家族の体調不良ということがきっかけで、今までと違う農との向き合い方が出てきそうだ。それは正に医食同源であり、畑という場のエネルギーに助けてもらうこと。「ひみつの花園」の方向性が見えてきた。キーワードは「やさしい畑」だ。「やさしい畑」とは「作物の収穫を第一の目的としない畑作り」。収穫や収量を第一の目的とした時、肥料を入れたり耕したり作物の敵になるものを排除したりし始める。もちろん収穫を無視するわけではないから作物も草も手入れする。ただ作物ではなく畑全体を見る、気持ちの良い畑を作るということに視点を移すことで、違う世界が見えてくるように思う。そこにいるだけで気持ちが良くなる畑、畑にいることが目的の畑。これはもう農業ではないかもしれない。農業から業(なりわい)をはずすと「農」が見えてくる。この感覚はヤギを飼うことに似ている。ヤギは草だけで育てられるのであまりお金はかからない。ヤギ乳を飲んだりできるがそれ以上の実利はうちの場合ない。しかしヤギがそこにいるだけで、とてもとても豊かな暮らしに感じられるのだ。実利と思っていたものをわきに置くことで思わぬ発見がある。

 この畑には草がたくさん生えている。春のやわらかい草、夏前に実をつける草、夏生い茂る草、秋実をつける草、冬枯れのなかで地面にはいつくばる草。そんな草といっしょに作物も育つ。耕したり肥料を入れたりしないから作物も草もやさしく育ち始める。そんな畑作りをいろんな人たちがかかわりながらできる場を作ってゆきたいと思っている。きっといろんな気づきがやってくるはずだ。お盆が過ぎウスバキトンボが飛び交い秋風が吹き始めた。すぎな農園の畑の片隅で、この秋から冬越しにかけて畑作りを始めようと思う。秋は始めるのに良い時期だ。四季を一日にたとえると秋は夕方、冬という夜にものごとは熟成されて春という朝を迎える。まずは種を播くところの草を刈る。野菜や冬越しの麦、クローバーを播く。これはゆっくりとした畑作り。きっと生命力の強い作物ができ始めると思う。人と畑が共感しあうような、動植物一体の場ができたらと空想している。






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